Silent Spring (4)

(1)

 

 はじめまして、六代目様。

 にっこりと邪気のない笑顔を浮かべた子どもは、丈の長い着物の両袖を口元にあて、ぺこりと折り目正しく頭を下げた。そのあどけない姿に、カカシはすぐに反応できなかった。

『――驚くなよ』

 ここに至る道すがら、並走する綱手から匂わせるような言葉は聞いていた。だが、あまりに想定外の出来事に直面すると、人間というものはどうにも言葉を失ってしまうらしい。
 空転する思考回路、言葉を見つけられぬまま、カカシが絡繰り人形のようにぎこちなく首を動かして隣に立つ綱手を見やると、彼女はなんとも言えない複雑そうな表情を浮かべていた。一見、この状況に困っているようにも思えるが、鮮やかに紅を乗せたその口元がごくわずかにひくついているのを、カカシは見逃さなかった。
 カカシの非難めいた視線を受けても、綱手は素知らぬふりであらぬ方向を向いている。カカシは平常心を取り戻そうと幾度か瞬きをしつつ視線を戻すと、まっすぐに自分を見上げてくる金の瞳とかち合った。そしてその子がまた、無邪気ににこっと笑うものだから、釣られたようにカカシの顔にも笑みが浮かんでしまった。子どもというのは、それだけで不思議な力を持っている。
 ミツキと名乗ったその子どもは、背格好からしてナルトたちの子どもらと同世代のように思える。わずかに青みがかった白い髪に、日に焼けたことなどないような白い肌。琥珀の瞳には、剥き出しの好奇心と、子どもだけに許される遠慮のなさが宿っている。じっとカカシを見つめるふたつの瞳は、すうっと細められるとまるで蛇のようで、だからこそ余計に背筋が粟立つ気がする。
 カカシは、その眼差しに射すくめられるように感じた。こんな――幼い子どもに。
 ミツキは、ボルトやサラダたちとは、明らかに気配が違っていた。

 

 綱手がカカシを伴って訪れたのは、大蛇丸の監禁施設。目的地自体は最初から聞いていたので特に驚くこともなかったが、早駆けをしてきたふたりを出迎えたのが、大蛇丸と、このミツキだった。綱手が先発として式を差し向けていたのか、早朝の突然の訪問者に驚く様子もなく、カカシたちを待ち受けるかのように大小ふたつの人影が、施設入口に静かにたたずんでいた。

(驚くな、って、綱手様、これはさすがに無茶でショ……)

 カカシにしてみれば、まさに「胆をつぶされた」ような心境だった。ミツキがまず挨拶をし、大蛇丸からは、あら、久しぶりねと短く声をかけられただけで、ミツキに対する説明は一切ない。不親切極まりないと思いながらも、あらかじめ伝えられていた、驚くなよ、という綱手の言葉、ミツキ自身の姿形や醸し出す気配、これらすべてが間違えようのない、そして考えたくもない事実をカカシに突き付けてくる。つまりは、そういうことなのだ。
 大蛇丸を最後に見たのはいつだったろうか。大戦後に開かれた軍事裁判以来のような気もするが、心なしかその時よりも若返っているような。禁術使用によりその肉体を維持していることは周知の事実であるけれど、今は術の使用は禁じられているはず。カカシ自身、年齢よりも若く見られるほうだが、大蛇丸のそれは、その範疇を超えている。

(……まあ、綱手様もそうだしな……)

 同伴者のことを思い、気取られぬようため息をついてカカシは実年齢と外見年齢の相関性について考えることを放棄した。伝説の三忍と称された三人のうち、目の前にいるふたりについては、きっと深く考えてはいけないのだ。カカシはふと、今は亡き自来也に無性に会いたくなった。

「――火影もずいぶんと質が落ちたものねぇ」

 自来也を思い、ついしんみりとした気分に浸っていたカカシだが、かけられたその声にハッと顔を上げる。けれど大蛇丸はすでに身を翻した後で、施設内に向けて歩き出したその背中を、ミツキがゆったりとした着物をひらめかせ、軽やかな足音を立てて追いかけていた。
 ほれ、ぼうっとしてないでさっさと行くぞ、と綱手から急かされるように背中を小突かれ、カカシは苦虫を噛み潰したような表情で彼らの後に続いた。
 
(2)

 

 通されたのは入口にほど近い一室で、ありふれた木製の長机が一台と、パイプ椅子が四脚据え置かれているだけの、シンプルな部屋だった。
 どうぞ、と促された綱手とカカシは椅子を引いて着席する。パイプ椅子の足が床面とこすれて、ちいさいけれど不愉快な音を立てた。

「火影様をお迎えできるような部屋がなくて、申し訳ないわね」

 肩をすくめつつそう言われても、この相手からでは皮肉のようにしか聞こえない。憮然とした表情で、カカシは「……お気遣いなく」とだけ、応じた。
 その後、ふたりとひとりで向かい合ったまましばらく無言の状態が続き、カカシはなんともいえない居心地の悪さを感じていたが、不意に、ふわりとしたいい香りが室内に立ち込めた。 
 鼻腔を心地よくくすぐった香りの出どころは、いつの間に用意したのやら、ミツキが手にしたトレイ上のティーポットからのようだった。
 長い袖を引っかけやしないかと、ミツキの様子にカカシはヒヤヒヤしたが、ミツキはそんな心配をよそに、手慣れた様子でポットから澄んだ色の液体をカップに注いでいく。そして、「おばさま、どうぞ」と綱手にカップを手渡した。カカシ自身も同じようにカップ(ハーブティーのようだった)を受け取りながら、綱手とミツキの親しげな様子にどうやらふたりが既知の間柄であると察知して、内心で首を傾げる。

綱手様は、この子のことを以前から知っていたのか)

 

 

 大蛇丸の、子どもであろうミツキ。
 あの大蛇丸が、子を成した。
 いったい、いつ、どのようにして。
 相手は、まさか――――?

 

 

 生じた疑問を転がすうちに、それは絡まった毛糸玉のように大きくなる。それをほぐすようにしてたどり着いた答えが、自分でもあまりに衝撃的だったため、カカシは思わず飲んでいたお茶にむせかえりそうになった。
 いくらなんでも、「それ」は天地がひっくり返ってもあり得ないことだろう。理性がそう否定しても、隣の綱手をちらりと盗み見るような視線を送ってしまう。
 そんなカカシの様子にはまるで頓着せずに、綱手はお茶を一口だけ飲んで乾いた喉を湿らせると、ここまで慎重に運んできた箱の蓋を開けた。それを見たカカシもカップを置いて居住まいを正す。そうだ、このためにここに来たのだ。問い質したいことは多々あるが、それは本来の目的を果たした後でもよいだろう。

「これはヤマトのものだ。昨日、倒れた」

 まっすぐに大蛇丸を見据えてそう口火を切った綱手を、対面の大蛇丸は眉ひとつ動かさぬまま、無言で見返す。箱から卓上に取りだされた四本の試験管を、座した大蛇丸の隣に立ったまま控えていたミツキが、目を見開いてじっと見つめていた。口の中でちいさくなにかを呟いたようだったが、読唇術の心得のあるカカシでも、ミツキがその時なにを言ったのか読み取れなかった。

「これは里に保管されていたアイツの血液サンプルだ。子どもの頃のものから大戦後に採取したもの、すべてを持ってきた」

「それがなにか?」

 無機の表情と声音で大蛇丸が問い返す。確か、大蛇丸の下には水月をはじめとする元鷹のメンバーが頻繁に出入りしているようだとの報告を監視役の忍から受けていたが、今は他の誰の気配も感じなかった。室内も、室外も、満ちているのは静寂に近い。
 綱手はいつもながらの歯切れの良い口調で、けれど波ひとつない湖面のように落ち着いたその声音には、相手に対し有無を言わせぬ強い意志の表れを感じる。
 対する大蛇丸も、返す言葉は短く、なにを思っているのかその思惑はさっぱり読めない。が、自身が問うているはずなのに、求める答えはすべて知り得ていると思わせるその態度。 
 そこに在るのは紛れもなく人の姿。なのに、その背後には巨大な白蛇がゆらりと鎌首をもたげているような、そんな錯覚。
 大蛇丸が異形の身であることは身に染みて理解しているはずなのに、こうして改めて対峙してみると、その存在から放たれる圧倒的な「違和感」に、己の理解などあえなく消える泡沫のようなもの、浅薄な考えなのだと気づかされる。アレは「ひとならざるもの」であると、そんな単純な言葉で、自分がかろうじて理解できるカタチとして、ただそう思いこみたいだけなのだと気づかされて――無意識の思考の裏に潜む得体のしれぬ闇に、慄然とする。
 今の大蛇丸からは、かつてのようなぎらぎらとした殺意や欲望、執着などは一切感じられない。むしろ、その立ち居振る舞いは穏やかで、いっそ静謐といってもいいほどだ。
 だからこそなのか、これほどまでにその存在の異質さを感じるのは。
 目の前に座る大蛇丸は、かつてこの星に訪れた災厄、全忍を総じて死闘を繰り広げた大筒木カグヤとはまた違う、別次元の存在のように感じられた。――まるで、すべてを超越しているかのような。
 存在の異質、それは、大蛇丸の隣に立つちいさな姿からもひとしく感じられるものだった。
 転じた視線を感じ取り、ミツキがふと顔を上げる。まっすぐに見つめてきた金色の瞳に、カカシはひどく曖昧な笑みを返した。

 

 室内に漂うのは、ぴんと張り詰めた空気。ただ、そう感じているのはカカシだけなのかもしれなかった。この場にはまるでそぐわないミツキにも、大人同士のやり取りで緊張している様子は欠片もない。会話を聞いているのかいないのか、子どもの興味はただ一点、目の前に置かれた試験管に向けられているようだった。

「アイツは今、入院中だ。検査結果からするとなんらかの感染症が一番疑わしいんだが、どうにも腑に落ちない点があってな。――率直に言おう。チャクラ汚染との関連が知りたい」

 綱手は目に強い光を浮かべて大蛇丸を見つめる。カカシは、綱手の口から発せられた言葉に息を飲んだ。

(――チャクラ汚染?)

 それは、初めて耳にする言葉。

「ヤマトは神樹に長く取り込まれていた。我々よりもずっと長い時間、原始のチャクラに接し、侵されていたということになるな。それにこの間、ミツキも言っていただろう。ヤマトの塩基配列が乱れている、と。本来ならアイツをここに連れてくればいいのだろうが、意識が混濁したあの状態では、危険すぎる。まさかお前を里に呼ぶわけにもいかないから、アタシらがこうして足を運んだというわけさ」

 綱手は途切れることなく話を続けていたが、カカシには、綱手がいったいなにを話しているのか、まったく理解することができなかった。ひとつひとつの単語の意味はわかる。わかるのだが、それらから構築された話が、まるでわからない。耳から入ってくる言葉が、音としてしか認識できない。
 チャクラ汚染という言葉をはじめ、原始のチャクラというのは、いったいなにを意味しているのか。おまけに、ミツキ。カカシが今日初めて出会ったこの子どもに、すでにヤマトは会っているという。記憶を手繰っても、そんなことは聞いた覚えがない。

 なにもかもが不明なことだらけの状況に直面したカカシは、混乱する思考回路をどうにかして整理しようと試みた。
 事の発端は、ヤマトが倒れたことだ。その様子を見た綱手が、大蛇丸のところへ行くと告げた。医療の大家である綱手の言うことだから、ヤマトが彼女の手に負えない症状を呈しているのだろうと漠然と思って、ここまで随行してきた。
 それは、治療の困難な病態について、いくつもの問題を抱えている人物ではあるが、彼女と同じ、もしくはそれ以上に医療に造詣の深い大蛇丸の意見を仰ぐ、という単純なことではなかったのか。
 そういえばここに来る前に綱手は、『テンゾウだけの問題ではなく、アタシ達すべての問題だ』と、そう言っていた。テンゾウ――ヤマトの問題だけではなく、カカシ達すべての問題とは。
 思い出したその言葉に、カカシの胸中にはさらに得体の知れぬ不安が、黒雲と化して広がっていく。

「あの、綱手様。チャクラ汚染とは、一体なんのことなのでしょうか」

 綱手が一息ついた時を見計らい、ついにカカシは口を挟む機会を得た。
 ああ、済まない、それはまだ伝えてなかったなと言った綱手は、大蛇丸と顔を見合わせる。

「コイツには知る権利がある。この先のことも含めてな」

「……でなければ、わざわざ現火影をここに連れてくる意味はないわね」

 そしてようやっとカカシも、この世界を蝕み始めている大いなる災い、先の大戦の深すぎる後遺症について知ることになったのだった。

 

(3)

 

 目の前で繰り広げられる光景に、カカシはもう腹をくくるしかないなと胸中で独り言ちた。
 ここに来てから驚くことばかりが発覚し、五感のすべてがおかしくなりそうだ。自分の許容限界を超えてしまうと、里に残してきた影分身に悪影響が出ることは必至、そう感じたから、カカシは意識的に自分の感覚を少し鈍らせることにした。

「ミツキは、個体の塩基配列を視ることができ、さらにそれを可視化することができるのよ」

 機械を使って面倒な計算をしなくてもね、とそれは相変わらず抑揚なく淡々と語る大蛇丸の声。隣に立つ綱手が、これは彼女も知らない事実だったのだろうか、ごくりと息を飲み下す音がした。

 ――それは、なんと表現したらよいのかわからない、不可解で不思議な光景だった。 

 ひと通りの話を聞き終えた大蛇丸は、ミツキを伴って部屋を出た。新たに連れていかれた部屋にはなにもなく、部屋の中央にちいさな円柱状の台座のようなものがぽつんと置かれているだけだった。
 大蛇丸からサンプルの入った試験管をその上に置くように促され、綱手がそれに従う。そしてカカシたちは部屋の壁際まで下がるよう指示され、代わりにミツキひとりが部屋の中心、石造りの台座の前に立った。
 三人が見守る中、ミツキは片手を試験管の上にかざし、目を閉じると深く息を吸って、静かに吐いた。そしてゆっくりと開かれた両眼からは、子どもらしさは跡形もなく消えていた。
 大蛇丸によく似たその瞳の金が濃く深くなり、その深奥が一瞬、炎のように怪しくきらめく。白と浅葱の色の衣服が風もないのにたなびき始め、ミツキの全身から透明に近い白銀のチャクラが陽炎のようにゆらめき始めた。視界の端で何かが光ったような気がして足元に目を落とせば、ミツキの体から放出されたチャクラのひとすじが淡い光を放ちながら壁際に控えたカカシ達の足先をかすめるように弧を描いて走り、ミツキを中心とした光の円を描いていく。
 その様子は複雑な術式の忍術が発動する時とよく似ていたが、ミツキには印を結んだり呪を唱えたりするそぶりはまったくみられない。ただ、ミツキ自身から放たれた純度の高いチャクラの様は、いわゆるナルトが仙人モードに変じた際のそれと非常に近くて、こんな幼い子どもがと、綱手とカカシは驚きのあまり息をするのも忘れてミツキの姿に見入っていた。

 ミツキが無言のままかざした手をすっと上に引き上げると、それに導かれるように左端の試験管から索状のものが立ち昇った。それらはミツキの手の動きに従って蛇のようにうねりながらその頭上までするするとrb:空 > くうを登っていくと、花火のように四散する。

「これは――――――」

 目の前に広がった光景に、カカシたちはさらに言葉もない。
 四散した「なにか」は、よく見るとAGCTという四つのアルファベットが無数に散らばったもので、いくつものアルファベットは視界一杯に広がりくるくると渦を巻いたかと思うと、二文字ずつが引き寄せられるように組み合わさって、やがて螺旋を描いていく。

塩基配列の、可視化……」

 綱手の呆然としたような呟きに、カカシもハッと思い当たる。どこかで見たことがある形だと思っていたが、そうだ、これは生物の教科書には必ず出てくる、遺伝子を表現する二重螺旋構造そのものだった。

(この能力は、いったい)

 カカシの驚愕をよそに、綱手は唇を噛みしめ、鋭い視線で大蛇丸とミツキを見つめている。そこに刻まれた表情がなにを意味しているのか、その時のカカシにはわからなかった。
 ミツキはしばらくの間、己が中空に表出させたそれらの配列をじっと眺めていたが、再び同じ所作を繰り返して、最終的には並べられた三本の試験管すべてから、二重螺旋構造を導き出した。
 暗部時代、大戦前、大戦後。
 ミツキはそのそれぞれを、瞳孔を細めて長い間注視していたが、綱手のおばさま、と不意に声をあげた。急に呼ばれた綱手は、預けていた背を壁から起こす。

「な、なんだ?」

「おばさまの血を一滴ください」

 告げられた綱手は、特に理由を問うこともせずにミツキに近付き、指先を切って台座に血をしたたらせた。ありがとうございます、と丁寧に礼をいったミツキは、そこからも二重螺旋構造を描出する。
 綱手のものとヤマトのもの。それらを見比べるように眺めていたミツキは、やがて、うん、と頷いた。それと同時に全身を包むチャクラがふっとかき消え、元の子どもらしさを持ったミツキに戻る。そこでやっと、ミツキはカカシ達の方を向いた。その背後には、組み合わさった塩基対がくるりくるりと浮かんでいる。

「ヤマトさん自身の元々の配列はわからないけれど、これ、この大戦前の塩基配列は、初代様との類似点がすごく多いです。きちんと組み換えが起きている。そして、こっちが綱手のおばさまのもの。おばさまは初代様と血縁ですから、もちろん初代様と類似点があります。ということはつまり、ヤマトさんとも共通する部分があるということです。ほら、ここの部分が似てるでしょ?」

「シーケンスアライメントか……」

 ミツキが指で指し示した部分は、確かに配列に共通項があるように見えた。綱手が呟いた単語は、おそらく遺伝子工学に関するものなのだろうけれど、その手の学問にほぼ無縁のカカシには、これまた意味がわからない。けれど、その言葉は頭に刻んでおくことにした。 

「でもね、大戦後は、大戦前のものと違う配列がかなりあるんです。それで、一番新しいサンプルでは、それがさらに乱れています。こんなこと、普通のひとではあり得ません。身体が保てるわけがない。こんな短期間のうちに、そんなことが起こるわけないんです」

 でも、実際にはそれが起こっているんですよね、と小首を傾げながらミツキは言葉を続ける。

「なんだか、ヤマトさんと初代様がひとつの身体のなかで戦っているみたい……戦っているというか、うーん、なんだろう、ヤマトさんが初代様を追い出そうとしているのかな、ボクにはそう視えます。ヤマトさんの本来の遺伝子配列がわかれば、このひとの中でなにが起きているのか、もう少しわかるかもしれません」

(4)

 

 ミツキの動きが、不意に止まった。両目からふっと色が消えたかと思うと、ぷつりと糸がきれたように、軽い音を立ててその場に倒れ込む。驚いたカカシと綱手は急いで駆け寄ろうとしたが、ふたりが動き出すよりも早く、倒れた子どもに近付いた影があった。

「……連れていく」

 ミツキを抱き上げ、静かな低い声で大蛇丸に告げたのは、長身を黒に包んだ初めて見る姿。その場に突然現れた青年は、ミツキと同じ白に近い短髪で、その顔立ちはミツキととてもよく似ており、右頬を横切るように走るひとすじの大きな傷痕が、目を引いた。
 ミツキとは色調の違うやや薄い金の瞳がカカシたちを一瞥し、

「失礼」

 ただそれだけを告げた彼は、意識を失ったミツキを抱いてその場から立ち去った。

「――今のは誰だ? ミツキは大丈夫なのか?」

 カカシのふたつの問いかけに、大蛇丸は「心配ないわ」と応じた。今の人物が誰なのかという最初の問いには答えなかった。

「ミツキはまだ体力がなくてね。チャクラコントロールも未熟なの。もう少し鍛えなければ外には出せないわ」

 倒れたミツキのことは、先程の青年に任せたということなのだろう。大蛇丸がそれ以上話すことはなかった。それより、と彼は綱手に向き直る。

「ヤマトくんの不調の原因がこれでわかったわね。それがチャクラ汚染に繋がるものなのかはもう少し調べてみる必要があるけれど。まずは今の状態を改善することが先決ね。その方法もわかったわ。綱手、アナタよ」

「――は? アタシ?」

 突然話を振られた綱手が目を丸くする。その様子に、大蛇丸は呆れたようにやや大げさなそぶりで肩をすくめた。

「アナタも医療忍者の端くれなら、少しは頭を使ったらどう? 外見ばかりいくら取り繕っても、頭の中が空っぽじゃ、千手の名折れじゃないかしら」

「なっ、お前だってな……」

 憤慨したように口を開きかけた綱手を、大蛇丸は片手を上げて制した。簡単にいなされ、けれどそれ以上反論せずにむくれたように腕を組んでそっぽを向いた綱手は、どこか子どもっぽく思えた。
 そのやり取りを至近距離で見ていたカカシは、このふたりが、かつては同じ班であり、盟友でもあったことをはじめて肌で理解した。ここに自来也がいれば、三人の間に結ばれた繋がりの深さを、きっともっと知ることができたのだろう。
 もしも、と一瞬考えたが、カカシは頭に浮かんだその考えを振り捨てた。仮定の話をしても得るものはなにもない。起こってしまったこと、喪われたものは、なにも戻らないのだから。
 カカシは、大蛇丸の心変わり、犯した重罪を思い起こし、伝説の三忍と呼ばれた人々の絆が断ち切れてしまった不幸を、心から残念に思った。

 

 

 ――心やすく言葉を交わす大蛇丸綱手の姿。
 それが、カカシの心の奥にいる、大切なふたりの友の姿を思い起こさせる。
 オビトもリンも、目の前にいるふたりとはまったく違うけれど。
 喪われて、もう二度と手にすることのできない絆があることは同じだ。
 だからなのだろう。
 このふたりのやりとりに、どこか、突き刺さるような鋭い胸の痛みを覚えるのは。

 

 

 大蛇丸は言葉を続ける。

「――あの子の中にある柱間遺伝子が一因なら、それを抑えることは可能ね。綱手、アナタの血で中和抗体を作るわよ」

 綱手は千手柱間の直系だ。木遁の力を引き継いだわけではないが、彼女の持つ桁違いの能力、それは本人の努力の賜物でもあろうが、柱間の血脈に由来する部分もおおいにある。ミツキも、彼女の塩基配列は柱間と共通する部分があるといっていた。おそらく千手一族の誰もが共通配列を持っているはずだが、綱手はそれがひとよりも多いのかもしれない。
 大蛇丸は柱間細胞をまだ保持している。その驚異的な再生能力を利用して、大戦で身体の一部を失った人々への再生医療も行っている。彼が戦犯でありながらもある程度の自由が保障されているのはそのためだ。因果とはこのようなことをいうのだろうか。非道な人体実験を行い、膨大なデータを持っている大蛇丸にしか、できないことがある。

 それならば今回の件も柱間細胞を利用すればよいのではないかとカカシは思ったが、それだと強すぎるのだと大蛇丸は言う。

「千手柱間は、大筒木の血脈由来の突然変異体だと私は思っているの。基本的に柱間遺伝子は致死遺伝子で、だからこそ、柱間以降の継承者がいなかったと考えられる。現に、彼の能力を求めて行った移植実験のことごとくは失敗に終わったわ」

 多大な犠牲を出した己の過去を、悪びれる様子もなく話す。
 だが、子ども時代に柱間細胞を移植されたヤマトは、柱間遺伝子に適合し、生き延びた。木遁能力をも発現させ、それを自在に駆使している。ヤマトの体内で遺伝子組み換えが起こり、柱間遺伝子ではない、彼自身のオリジナル遺伝子に変異しているのだろうと、大蛇丸はカカシと綱手に話した。

「あの時は柱間のコピーを造れればと思っていたけれど、コピーどころか、ちょっと面白い子ができたわけね」

 そう言って、大蛇丸は目を細めた。

 ミツキの言う通りであれば、原因は不明だが、ヤマトの体内で再び遺伝子変異が起きようとしている。柱間遺伝子に連なる部分を排除する動きがあり、柱間遺伝子がそれに対抗している。それはつまり自己を攻撃しているということにもなり、免疫が暴走しているともとれる。
 自己免疫疾患に近い状態ということらしく、そこに元々の柱間遺伝子から作った中和抗体を入れてしまったら、ヤマトの体内にある柱間遺伝子と競合し、再活性化して、今度こそ本当に彼を死に至らしめる可能性があると。柱間遺伝子というのは、それほどまでに制御しにくいものなのだ。
 
 綱手は柱間の直系とはいえ、実子ではなく孫にあたる。間に綱手の両親が存在することにおり、血は薄まっている。さらに大蛇丸がいうには、千手一族にうずまき一族との混血が生じたことにより、なんらかの原因によって柱間遺伝子を継承したとしても女性には致死的要因にはなりえないのではないかと。うずまき一族の封印術が、どのような形であるかは不明だが、自然防御として抑制的に作用している可能性がある。つまり、女性であるということ自体が、柱間遺伝子への耐性獲得に繋がっている。

「それに加えて、これはあくまでも推測の域を出ないけれど――アナタの中に柱間への対抗遺伝子が発現している可能性もあるわ」

 綱手とカカシは思わず顔を見合わせた。
 大蛇丸の博識と、そこから導き出される論理的思考の底知れなさを改めて思い知らされたような気がした。
 諦観と共に、認めざるを得ない。大蛇丸という存在が、他に比べる者のいない、稀有の存在だということを。だからこそ、三代目ヒルゼンも期待するところ大だったのだろう。

綱手、一週間、ヤマトくんをもたせなさい。中和抗体ができたら必ず届けてあげるわ」

 大蛇丸は、そう確約した。

 たっぷりと血を抜かれ、さすがの綱手も貧血気味に顔を白くさせながら、カカシと共に里への帰路につく。行きよりはかなり速度を落とした行程の途中、綱手はカカシの顔が曇っていることに気づいた。

「――どうした、カカシ」

 ひとまずはヤマトを復調させる手立てができたのに、なにを浮かない顔をしている、とそう問われ、カカシはぽつりと言葉を落とした。

「……テンゾウは、大蛇丸によって人生を狂わされました。ですが、その大蛇丸に今度は救われようとしている。いえ、あの男にしかテンゾウを助けることはできないんでしょう。それは、俺にもわかっています。だからこそ、綱手様がヤツを頼ったことも。ただ、これがあいつにとってどんな意味を持つのか、大蛇丸の力を借りてその命を長らえることを、あいつがどう受け止めるのか……」

 目覚めたあいつになんと声をかければいいのかわからないんです、と、答えたカカシに、綱手は返す言葉を見つけることができなかった。

 

 

 

 

 

 ……雨は、非情な強さと冷たさで地面を叩きつけていた。
 鬱蒼とした森の中、泥だらけで倒れていた子ども。
 駆け寄ったカカシに弱々しくさしのべられた手。
 必ず助けてやると、子どもに告げた。

 

 あの時の光景を思い出しながら、カカシは走った。
 今のカカシには、ただ走り続けることしかできなかった。
 足がひどく、重かった。

 

 

 


(続)